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多氏渡来人説

百瀬直也

はじめに

多氏(おおうじ)は、日本古代に活躍した古代氏族だ。
大、太、意富、飫富、於保などとも書くが、すべて「おお」と読ませる。
神武天皇の御子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と称し、いわゆる皇別に分類される氏族だ。
『古事記』では、神八井耳命を祖神とする氏族として、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣などがあるとしている。
多氏系の氏族は全国的に広がり、上記のように、国造になっているケースも多い。
また、諏訪大社下社の最高神官である大祝家を世襲した金刺氏は、前述のように神八井耳命を祖とする科野国造家からの別れだ。
『古事記』の撰者として知られる太安麻呂も多氏の一族だった。
多氏系氏族は全国各地に広がり活躍しており、また一面では非常に謎が多い一族だが、これまで、まとまった研究がされていないようだ。

ところで、谷川健一氏はその著書『青銅の神の足跡』で、多氏が渡来人である可能性を示唆している。
また、梅原猛氏は『神々の流鼠(るざん)』で、多氏が帰化人と関係をもつ氏族ではないかと書いている。
大和岩雄氏は『秦氏の研究』で、渡来人の秦氏(はたうじ)と多氏が密接に関係していることを、さまざまな例証をあげて指摘している。
いみじくも記紀では天皇の血を引く一族であるとされているにもかかわらず、どうして上記のような説が出るのだろうか。
本稿では、この謎について追求することにしたい。

第一章 多氏と秦氏の密接な関係

前述の大和岩雄氏の『秦氏の研究』は、謎が多い渡来人の秦氏についてのまとまった研究として、非常に価値あるものだろう。
この大著では、この渡来氏族が古代日本の社会、特に文化・信仰・芸能・工芸・金属精錬などの分野に深く関与していたかを、膨大な文献を引いて示している。

大和氏によると、秦の民は朝鮮半島の南端にあった加羅(伽耶)、特に金海地域から移住してきたという。
秦氏たちは、自らを秦の始皇帝の末裔だと称していた。
秦の一族は伽耶の前にあった弁辰という国の出身だが、その地では弁辰人と辰韓人が雑居していたといわれる。
この二つの種族が混在して渡来したのが秦氏であり、その中にいた辰韓人が秦始皇帝の末裔だと称したというのが大和氏の説だ。

ところで、秦と書いて「はた」と読ませるのは、一般的な日本語のよみではない。
大和氏は、秦の語源について、次の2つをあげる。

  1. 朝鮮語の海を意味するpata
  2. 朝鮮古語の「大・多・巨・衆」を意味するhata

そして大和氏は以下のように書く。

海を渡って大集団で渡来した伽耶(羅)系の人たちを、海を渡って来た意味のpataと、多いの意味のhataの、二重の意味をこめて、「ハタ」といったのであろう。
(大和岩雄、『秦氏の研究』より)

それを秦と書くのは、彼らが秦国から来たと主張したためだったのだろう。
秦を波多と書く場合もあるが、大和氏によると、「波」は海pata、「多」はhataを示し、この表記からも、海と多の意が「ハタ」になっていることを示していると説く。

ここで大和氏は、朝鮮古語のhataに「大・多」の意味があることに注目している。
そして、秦氏と多氏(太氏とも書く)が密接に関係している例をいくつかあげている。
それをまとめると、以下のようになる。

  1. 雄略天皇が、多氏と同祖である小子部氏に命じて、全国に分散している秦の民を召集させた。
  2. 大和の小子部氏が祀る子部神社がある飫富(おお)郷に秦庄があり、秦河勝創建の秦楽寺がある。
  3. 仁徳天皇のとき、多氏と同祖の茨田(まんだ)氏が秦人を使って茨田堤を築造した。
  4. 大和の飫富(多)郷に茨田(奈良県田原町満田)と秦庄(奈良県田原本町秦庄)の地名がある。また河内国茨田郡に幡多郷があり、太秦(平安京の秦氏の本拠地と同じ)の地名がある。

『秦氏の研究』で、多氏と秦氏の密接な関係を示す例は、これだけではない。
大和の弓月嶽の背後に広がる都祁(つげ)は、波多氏系星川臣の本貫の地であり、ツゲ国造は多氏と同祖であるということからも、多氏と秦氏の関係は密接であるとしている。
また、秦氏系氏族が多氏系に入り込んで多氏と同祖となっている例をあげている。
たとえば、薗部氏という氏族は多朝臣と同じ神八井耳命の後(すえ)で、韓国(からくに)宇豆峯神社のご神体が曽乃峯であることから、本来は秦氏系だったのが多氏系に移ったのだろうとしている。

このように、多氏が渡来人の秦氏と密接な関係にあったことは疑いないことのようだ。
次に、多氏が秦氏と同様に渡来人だったとする谷川健一氏の主張を紹介する。

第二章 青の一族

谷川健一氏の『青銅の神の足跡』は、本来の専攻は民俗学である氏が古代史に一石を投じた貴重な本だ。
様々な点で示唆に富んでおり、読み返す度に新たな発見がある。
この本の「青の一族」の章では、秦氏と同じ渡来人の東漢(あずまのあや)氏について書いている。
『新撰姓氏録逸文』によると、応神天皇のとき、後漢の阿智王が七姓の漢人をひきいて渡来したという。
阿智王は阿知使主(あちのおみ)を賜り、その後裔が東漢氏と西漢氏になった。
この七つの姓というのは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高だが、ここに多氏と同じ「多」の姓があることに注目したい。
この多姓は、檜前調使(ひのくまつきのおみ)の祖となったという。
また、皀郭姓は坂合部首(さかいべのおびと)の祖だが、坂合部練は多氏と同祖だと谷川氏は書いている。

ところで、この阿智王は自らを後漢の末裔だとしている。
だが、朝鮮半島南端にあった伽耶の国を構成していた伽耶六国の一国が阿耶伽耶(アヤカヤ、別名:阿羅・阿尸良国・阿羅加耶)であり、阿智王らは自分たちが住んでいた国の名を取ってアヤ氏(漢氏)と称したのではないだろうか。

谷川氏が多氏と関係が深い人物の一人としてあげているのが、飯富青皇女(いいとよあおのひめみこ)だ。
飯富王、青梅皇女、忍海郎女王、忍海郎女など、さまざまな呼び方がある。
青皇女は履中天皇の娘で、母は葦田宿衝 (損城襲津彦の子)の娘の黒媛と言われるが、別伝では市辺押羽皇子の娘で、母は蟻臣(葦田宿衝)の女藻(はえ)媛とも伝えられている。
『日本書紀』によれば、清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず、久しく空位が続いたために、飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから臨時に政(まつりごと)をしたとあり、一時は天皇に準ずる地位にあった可能性を伝えている。
記紀では天皇という言葉を使っていないが、『扶桑略記』では「飯豊天皇」としている。
多氏の一族で飯富とか飫富と書かせてオウと読む例が多くあり、飯豊もオウと読むことができることから、谷川氏は飯豊青皇女を多氏と同族であることを暗示するとしている。

飯豊天皇が政を行った忍海(おしぬみ)の角刺宮の跡には、角指(つのさし、かどさし)神社が建っていて、飯豐青命を祀っている。
この神社がある奈良県北葛城郡新庄町に、忍海(おしみ)の字名が残っている。
谷川氏によると、この忍海の地名も、もとはオオミと読んだだろうという。
忍海といえば、忍海漢人(おしぬみのあやひと)の名が諸書に出てくる。
朝鮮半島から渡来した人々だが、彼らは大和の忍海郡などの地に住み、製鉄技術や金・銀の採鉱の技術を日本に広めたのだと谷川氏は書いている。
その忍海漢人が住んでいたところとして、伊勢国の大金郷がある。
鍛工金作部が住む地だが、そこに大神社がある。
大神社は大和の多神社の裔社であり、多氏と同族の伊勢の船木直が祭司を行っていた。
谷川氏は、この近くの四日市市大矢知で銅鐸が出土していることに注目する。
この大矢知の地は、かつての伊勢国朝明郡訓覇(くるべ)郷にあり、訓覇は呉部であり、紡織を業とした部民の意味だという。

これらのことから、谷川氏は次のように推論する。

このようにして、多氏およびその同族である船木直と、忍海漢人と、それに呉部の地名が同一地域に登場する。これは、多氏が朝鮮半島からの渡来人であることを示唆してはいないだろうか。その出自が百済であるか、加羅であるか、それをきめることはむずかしい。
(谷川健一、『青銅の神の足跡』より)

大和岩雄氏が書くように秦氏と多氏に密接な関係が見られることによっても、多氏渡来人説はかなり説得力があるのではないかと思う。
多氏は神武天皇の血統をもつ一族であるから、記紀による限りでは渡来人説は成り立たない。
だが、そこに何らかの裏の理由があって皇別とされたのかもしれない。
古事記の撰者が太安麻呂という多氏の一族であったのだから、そのへんの情報操作は可能だったのだろう。

ところで、『日本書紀』には身狭村主青(むさのすぐりあお)という人物が登場する。
雄略天皇14年のときに、身狭村主青を呉国につかわして、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛、弟媛をつれてこさせ、呉人を檜隈野に置いたという記事がある。
これが阿智王の記事と似ていることから、谷川氏は、身狭村主青は阿智王と同一人物と見て差し支えないとする。
『新撰姓氏録』によると、「牟佐村主は呉孫権男高より出づ」とある。
また、牟佐呉公は呉国青海王の後なり、とある。
これらのことから谷川氏は、青という姓も青海王から出たのかもしれないと書く。
いずれにしても呉国からの渡来人だろうが、中国の呉なのか朝鮮半島の諸国を指すのか決めかねるとしている。
ちなみに、いずれ別稿で書くつもりだが、中国の呉国の末裔も朝鮮半島南部の諸国(新羅や伽耶)の住民も、鳥越憲三郎氏によれば、同じ「倭族」であるという。
つまり、両方とも倭人と同族だったというのだが、私はこの説を支持する。

第三章 推論

先に書いたように、谷川氏は多氏の一族が百済か加羅か決めかねているが、私は次のような推論をする。
加羅の初代王は首覇王(スロワン)で、青裔という別称があり、ここに「青」の字が見える。
どうも東漢氏と多氏には、青の文字がつきまとっているように思われる。
そして、谷川氏が『青銅の神の足跡』で様々な例をあげて示しているように、多氏は秦氏や東漢氏と密接な関係がある。
東漢氏は前述のようにアヤの音を含むことからして、加羅(伽耶)の一国である阿耶伽耶から渡来したと思われる。

これらの理由から、多氏が本当に渡来人だったとすれば、加羅から来た人々だったのではないか、というのが、私の現時点での結論である。



参考文献

Copyright(C) 百瀬直也 初出:2004/07/30 第2版: xxxx/xx/xx
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